僕は、横浜生まれの横浜育ちです。
地元の公立中学校を卒業後、東京の高校へ進学しました。
日体荏原高校へ進学
中3の時に、体育の先生になりたいって思っていたんでうすよね。深い意味はあまりないんですが、先生という職業に憧れもありましたし、先生になるなら、体育の先生かなって思ったんです。
そこで、日体大の附属高校を選んだわけですが・・・。これが僕の人生の中で最初の挫折だったかもしれないです。
というのも、クラスの半分ぐらいは、みんな、日体大に行きたいと思って入学してくるんですよ。なので、スポーツテストなどをしても、僕は、下位の成績しか出ないんです。中学時代は、走るのも早かったんですけどね。
さらに、クラスの残り半分は、ヤンチャな生徒ばかりなんですね。
時効とはいえ、話せないような話がいっぱいありますよ。例えば、週に1〜2度ほどは、他校の生徒からケンカを売られます。
僕は、ケンカって大嫌いなので、売られたケンカは買いません。ひたすら逃げるのですが、逃げきれない時もあったりするんです。
大抵の場合、担任の先生からは、一人で下校するなと言われていたので、複数人でいますから、ケンカが強い奴がいるんですよ。
父親の借金
高校卒業後は、就職も考えていました。
しかし、18歳で社会に出ていくことが怖かったんですよ。なので、大学に行くという選択をしました。高校時代は、勉強などろくにせず遊んでいましたから、全く歯が立たず撃沈しました。
そして、浪人することになるんですけど、それなりに勉強はしました。しましたが、予備校のテストは、良かったり、悪かったりと安定しなかったんです。
仕方がなく、偏差値の高いところ、中堅のところ、低いところと受験する準備をしていたんですけど、父親が仕事で大きな借金を作ってしまうんですよね。
親戚中からお金を借りまくり、挙げ句の果てには、19歳の僕に、銀行からお金を借りてこいと言ってくる始末。
流石に、大学ななんて行っていられないということで、働く場所を探したんです。
レストランドルフィン
中学時代から通っていた喫茶店の先輩に、桜木町にある焼き鳥屋さんへ、ちょくちょく連れて行ってもらっていました。
もちろん、僕は未成年でしたし、お酒も飲めない体質だったので、その頃は、全く飲んでいなかったと思います。(今は、浴びるほど飲みますが・・・。)
大学進学を諦めた時に、お酒が飲めないのに、飲みにこうと、その焼き鳥屋に行ったんです。それも、午後3時ごろです。
3時ごろから仕込みをしていることを知っていたので、行ったんですが、大将は、僕を見るなり、「どうした?覇気がないぞ!」って言うんですよね。
僕は、その時に、大人ってすごいなあって思ったことをよく覚えているんです。
僕が事情を話すと、「就職か。当てがあるのか?」と聞くので、「全くありません」と答えると、そうか、じゃ、俺に任せろって言うんです。
そして、次の日、電話がかかってきて、今日面接だから、履歴書を書いて、午後2時に店に来いって言うことになったんですよね。
車で店の前まで行き、大将と一緒に、レストランドルフィンまで連れて行かれたんです。
ドルフィンは、荒井由実の名曲「海を見ていた午後」の歌詞に出てくるので、有名なレストランでした。
ここで、どこかの会社の人と面接だろうと思っていたんですが、現れたんは、コックさんとドルフィンの社長だったんですよ。
え?まさか、このレストランで働くの?って思ったんですけど・・・。
結局、次の日から来なさいと言うことで、レストランドルフィンに、見習いのコックとして就職したったんです。
負けず嫌いの性格が発動されてしまう
紹介で入社したので、とりあえず3ヶ月は頑張ろうと思ったことを覚えています。
勤めはじめてすぐに衝撃的なことがあったんですね。
それは、先輩に16歳と17歳がいたことです。
中卒で働いている先輩に、敬語を使うのがとてもキツいというか、受け入れられなかったのです。
すぐに辞めてしまおうという選択もあったかもしれないです。
しかし、当時の僕は、「この二人を抜いてやる!」と心の中で思ってしまったんですよ。
心が決まると不思議なもので、敬語も使えるし、彼らよりもガムシャラに働くことができてしまうんです。
そのレストランの厨房には、料理長以下14名のコックがいたんですが、少しずつ腕を上げていった僕は、3年後には、なんと「サードポジション」まで上り詰めることができちゃったのです。
そのころは、年下の先輩も一人は、コックを辞めてしまい、もう一人は他のレストランに移動していました。
もう、本当に忙しくて、レストランのオープン前には、お客さんが数十人も並んでいることもしばしばでした。
人生の中で一番働いた時期だったのかもしれないです。
その時の経験が、地方でレストランを開業するということに繋がるのですから、不思議ですよね。
そうそう、お給料も入社した当時は、手取りで6万円だったものが、4年目には25万円になっていたんです。
コックの世界は、腕を上げること=給料が上がるということなんですよね。
人生の分岐点が突然やってきた
そして、5年目を迎えたある日のことです。
料理長から呼ばれました。
「アマン、おめでとう!」
急におめでとうってなに?と思って、話を聞いてみると、横浜のコック協会から毎年推薦でフランス修行に2名選ばれるそうなんですね。
フランスで修行か、悪くないなと思ったのですが、条件が厳しかったんです。
条件とは
その条件とは、「自分の銀行口座に、200万円以上の預金を持っていること」だったんです。
理由を聞いたら、最初の半年は、語学学校に通うんですね。そして、その半年は、働いてはダメなんです。
ですから、フランス修行は、200万円持っていないといけないんです。
料理長は、大金ではあるものの、なんとか工面できるだろうと思っていたそうです。
真面目な性格でした
当時の僕には、200万円なんて、そんな大金持っていません。
親もギリギリの生活をしていましたし、親戚や友人に借りるなんてこともできない。
悩んだ結果、僕は、フランス修行を辞退しました。
フランス修行を辞退したら、急にモチベーションが下がってしまい、「もうこの世界から足を洗おう」と思って、コックの仕事を辞めました。
結果、料理の上手なただの人になったんです。
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